# 三服文学賞に応募していない
4月23日(日曜日)
「パパは何もしてくれない」
とまあ、そういった具合のことを言われて喜怒哀楽のすべての感情が同時発生するという、ずいぶんとめずらしい経験をした。
ひとり親家庭なので親がしっかりしていないぶん、子どもたちがしっかりしてくれる。きみたちの成長を感じられて喜ばしいよ。(嬉)
でもねえ、きみたちに衣食住を提供するためにフルタイムで仕事をしつつ、その合間に目に見えない家事(わが家の排水溝が詰まっていない理由を知ってる?出しっぱなしだったアイスの空箱は誰が捨てたのでしょう?)をこなしている。当番で夕飯をつくるだけが家事ではないのだよ、という怒りが湧いてくる。(怒)
それ以上に、あれやこれやとやっているのに何もしていないという、「なにごともない」を維持する苦労が伝わらない哀しさ。(哀)
まあ、いいんだ。勝手に生んで勝手に育ててるので、親に感謝なんてしなくていいよ。ひとり親家庭の不自由さを感じさせないよう生活してきたおかげだろうか、自由気ままに過ごしている子どもたち。それでいいよ。(楽)
こういう生活、楽しいでしょ。ひとり親家庭というけれど、片親が欠けた家庭ではなくて、わが家はわが家でこういう形の家庭。いろんな家庭の形があっていいじゃない。
とは言え、不自由がまったくないわけではない。
ひとつ例を挙げるとすれば、これまで旅行に行くことが難しかった。三人の子どもに対して手は二本。一本足りない。さらに荷物を持つ手が必要だ。もう一本足りない。幼い子どもたちをつれて旅行というのはハードルが高い。
旅行にも連れていかないし何もしてくれないというけれど、日々の生活をおくるというのは海外旅行以上にエネルギーがいるのだよ。
「海に行くよりも、キャンプに行くよりも、子どもたちはお父さんやお母さんが幸せそうにしているのが一番幸せなんですよ」
当時の担任の先生の言葉が救い。
もちろん、ひとり旅も気軽にできるものではない。
写真を撮ることが好きで、あちらこちらへ撮影旅行へ行きたいのだけど。
どこにも行けない。どこにも行けない。どこにも行けない。
あるとき、日本でも話題になった写真家ソール・ライターの写真集を購入した。そこには偉大な写真家のこんな言葉が載っていた。
「私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。
神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。
なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ」
それからは、自宅の周辺で写真を撮るようになった。
道路の塀の境目に引かれた桜色のライン。
ビニル傘ごしに滲んだ赤と緑の光の玉。
老夫婦の行く先に敷かれた黄色いカーペット。
はしゃいで駆けだした子どもたちの白い足跡。
そうこうしているうちに子どもたちも大きくなり、ふり返るとあっという間に思えるのだけど、子育ての最中にあっては「これが永遠に続くのでは…」と感じてしまっていた。
自分のことは自分でできるようになったし。(でも、学校に提出する書類をそろえたり、わが家の家賃の振り込みをしたりしてる誰かがいるのだよ)
まあ、とりあえず、「進学おめでとう!」「ここまでの子育ておつかれさま!」ということで、みんなで旅行にでも行こうよ。
きみたちは今まで以上に自由気ままに生きていけばいいし、パパも好きなことをして生きていくし。
「じゃあ、別々に旅行しようよ」なんて言われそうだけど、その前に家族旅行へのご参加お願いしますよ。
神秘的なことは自宅の周辺で起こるとして、家族旅行は神秘的ではないかもしれないけれど、ずっと記憶に残るんじゃないかな。
ちゃんと旅のプランも立てるし交通と宿の手配もするから、何もしてくれないとは言わせませんよ。きみたちの希望もちゃんと取り入れます。
ただ、ひとつ希望を言わせてもらうと、ちょっとのんびりしたいかな。
それほど遠くないところで、これまでのつかれを癒やせるようなところ。
佐賀の温泉宿なんてどうだろう?