# YU-HAN GAME(夕飯ゲーム)  世界中に散らばる争いの火種と、このベランダから見える街に散らばる窓明かり。その数と数とはイコールで結ばれるものかもしれない。  窓からこぼれる光の数だけ、争いの火種は燃え上がる機会をうかがいながら、静かにその時を待つ。このベランダとガラス一枚を隔てた空間でも、今まさに、争いの炎が燃え上がろうとしていた。  ◇◇◇◇ 「ちょっとゴミ出してくるな」  ゴミ袋を持った父親が息子に声をかけた。 「あ、僕が行くよ」という息子を制して父親はこう言った。 「ゴミ捨てはいいから、テーブルを拭いて食器の用意をしておいてくれないか」 「それから」と父親が続ける。「今夜の夕飯は何だかわかるかな?帰ってくるまでに考えてみなさい。もちろん、鍋の蓋を開けるのは反則な」  父親がドアを閉める音を聞いて、息子は早速動き出した。  コンロに近づくと、圧力鍋と小さめのフライパンが火にかかっている。圧力鍋は密閉されていて、匂いが漏れてこない。いや、それでも本来ならば、圧力鍋で調理されている料理の匂いは感知できるはずだ。それを困難にしているのは、隣のフライパン。 「これは...八角か?この匂いで圧力鍋の匂いがかき消されている。父さんのこれまでの戦略からして、本命は圧力鍋。八角はカモフラージュのために用意された!」  密閉された圧力鍋の中身をのぞき見ることは不可能。息子は次に冷蔵庫を調べ始めた。 「昨晩との差分を見てみると、無くなっているのは、にんじん、じゃがいも、たまねぎ、それから...」  息子はここで目を閉じた。まぶたの上からでも眼球が忙しなく動いているのがわかる。それは、過去に蓄積された大量の映像をザッピングしているかのようだ。  普通に考えると、カレーだ。しかし、父親のことだ、そんなセオリー通りの行動をするだろうか?あるいは、カレーかシチューかの二択?いや。 「父さんに限って、そんな二択はありえない。なぜなら、カレーかシチューかというのは誤差範囲であり、僕がどちらを答えようとも、父さんの完全勝利とは言えないからだ」  まもなく、父親が帰ってくる。考えている時間はさほど残されていない。食卓を拭いて食器を並べなければ。台拭きを絞って食卓に近づく途中も、息子の眼球は忙しなく運動を続けていた。そして、ある一点でその運動が止まった。息子は呟いた。 「父さん、僕の勝ちだよ」  ◇◇◇◇ 「ただいま」と父親が部屋に入ってくる。「外はすごく寒いぞ。今夜は...」  その言葉を最後まで聞かず、息子は切り出した。 「わかったよ。今夜の夕飯が何なのか」  父親は続きを待った。心なしか、口元が緩んでいるようにも見える。 「今夜の夕飯...それは...カレーだ!」  息子は父親の変化を一瞬でも見逃すまいと、その顔を凝視する。しかし、相変わらず父親は口元を緩ませたままだった。 「ずいぶんと素直じゃないか。私がそんなものを作るとでも?」 「作るね。間違いない。今夜の夕飯はカレーだ」 「そう断定するとういことは、冷蔵庫を開けたということだ...だとすれば、ソーセージが数本残して使われていることに気付いたはずだが?」 「もちろん、気付いたさ。普通は、いや、少なくとも我が家ではカレーにソーセージは使わない」 「だとすれば、なぜ夕飯がカレーであると考える?」  息子は笑顔になると、力強くこう答えた。 「ココイチ」  その瞬間、緩んでいた父親の表情に緊張が走る。 「おまえ、なぜそれを...」 「ココイチには『ソーセージカレー』というメニューが存在する」  笑顔を保ったまま息子は言った。父親には明らかに動揺が見られる。 「おまえをココイチに連れて行ったことはなかったはずだ」 「ああ。確かにその通り。父さんは頑なに僕をココイチに連れて行こうとしなかった。だが、それが裏目に出たな。父さんに連れて行ってもらえないことで、僕のココイチへの関心は極限まで高まった。そして...」 「ウェブサイトでメニューを見たのだな」 「その通り。僕は以前から『ソーセージカレー』の存在を知っていた。そして、今日、確信した!父さんは、この日のために僕をココイチに連れて行かなかった!カレーにソーセージという組み合わせを悟られないために!」  ◇◇◇◇  エアコンの入っていない部屋は、次第にその温度を下げてゆく。 「く...」父親の口から声がこぼれる。 「僕の勝ちだ」 「くくくく...」  父親の口からこぼれる声は、押し殺した笑い声へと変わっていく。 「おまえは、冷蔵庫の中身を見て『昨晩』との差分を確認したはずだ。登校前も帰宅後も冷蔵庫には触っていないから、間違いないだろう。残念だったな。おまえが学校に行っている間に買ってきた...」  息子は、右手を上げると、父親の言葉を遮った。 「野菜室に残った野菜の不自然な配置には気が付いていたさ。まるで、何かを避けるようだった。大きさからして、キャベツかレタス。それが無くなっていることは不自然じゃない。カレーに足りない生野菜。今夜の夕飯にはサラダがついている!」  父親は息子の推理を聞いてもなお、笑い声を止めようとはない。 「くくく...おまえは、いつも詰めが甘い。そのサラダの存在を確認したのかね?それに、私は、調理器具をそのまま放置してゴミ捨てに行った。サラダを作ったのであれば、その痕跡が残っていそうなものだが?」  次第に寒くなる部屋の中にあっても、うつむいた息子のこめかみの辺りに汗が滲むのが確認できる。 「そんな...いや、痕跡は消すことができる。ゴミはゴミ捨て場に捨てられている。それよりも、サラダは...」  そこまで言って、息子は、はっと顔を上げた。 「ゴーゴーカレーだ!ゴーゴーカレーはカレーにキャベツの千切りを盛りつけている!」 「おまえがゴーゴーカレーまで知っているとは意外だったよ。しかしだね。キャベツを隠すために圧力鍋に入れしまえば、ゴーゴーカレーは成立しなくなる」  少しの間を置いて、父親は再び口を開いた。 「だが、ずいぶんとカレーにこだわるね。カレーに囚われたこと、それがおまえの敗因だよ」  ◇◇◇◇ 「敗因?」息子が続ける。「いつ僕が負けた?」 「ほう、この状況から勝つ算段があるとでも?」  父親の言葉に、息子は声を上げて笑い始めた。 「はっはっは...本棚に隠しておけば安全だとでも思ったのかい?父さん」  目を見開いた父親を見つめながら、息子は続けた。 「いつも視野が狭いと言われるけど、あちこち見渡していると見つかるものだね。本棚の本の間に、カレーのルーが半箱。決定的だ」  息子は、父親の表情に明らかな変化があると期待していたが、父親はまた口元を緩ませた。となると、次の質問は予め予想できている。息子には自信があった。 「だから、詰めが甘いと言っているのだ。このルーがもともと半箱分使って放置されていたものだとは考えなかったのか?」 「そう聞かれることは、わかっていたよ。だが、賞味期限から逆算して、このカレーを購入したのは18日~21日前。それから今日まで、カレーを使った食事は一度も食卓に並ばなかった」  自信に満ちた息子の様子を気に留める様子もなく、父親は静かな口調でこう言った。 「次の質問だ。この質問も予測できているかね?私は、いつも夕飯を食べて後片づけが終わった後にゴミを捨てに行く。残飯が出るからね。だが、今日に限って、夕飯前にゴミ捨てに行った。その理由がわかるか?」  確かに、息子はそのことに違和感を覚えていた。しかし、その理由とは。 「まさか!」  息子の顔を恐怖が覆い尽くす。まるで、絶対的な「悪」と対峙しているかのように。 「そんな...使っていないルーを半箱分、捨てたのを悟られないために?ぐ...食品を無駄に破棄するとは極悪非道な...」  父親は、冷たい目で息子を見つめる。 「夕飯にルールなど無いのだよ」  ◇◇◇◇  その時になって初めて、息子は部屋の寒さに気が付き、身震いした。しかし、彼にはエアコンに命を吹き込むリモコンの在処がわからなかった。 「見たまえ!これが今夜の夕飯だ!」  父親は寒さに気づかぬ様子で、コンロまで進むと、圧力鍋の蓋を開けた。  ポトフ。確かに、すべての点と点とを繋げばポトフにたどり着くのはそう難しいことではなかった。 「カレーのルーを犠牲にして、僕を欺くとは...」 「ははは。さあ、夕飯にしよう」  振り返り、食卓を見た父親の動きが止まる。 「おまえ...まさか...そんな...」  そこには、父親の予想していなかった光景が広がっていた。  食卓の上にはスプーンの代わりにフォークが並べられている。そして、中央には黒胡椒の小瓶。 「父さん」息子が口を開く。 「わかっていたよ。今夜の夕飯がポトフだということは」  レードルを持つ父親の手が震える。 「い、いつから気付いて...いた...?」 「ツイッター」 「!」 「僕は2年前から、父さんの『裏アカ』をフォーローすることなく非公開リストに入れている」  完全に動きの止まった父親を無視して、息子は続ける。 「それから2年間、父さんの行動パターンを分析し続けた。そして、わかったんだ。父さんは、裏アカで複数の料理アカウントをフォローし、気になったレシピに『いいね』をしている。そして、『いいね』した料理は1週間以内に食卓に並ぶ。この1週間で父さんが『いいね』したレシピは『中華風ポトフ』と『鶏胸肉のチリマヨ焼き』のふたつのみ。使われた材料から、今夜の夕飯が『中華風ポトフ』であることは容易に推測できる」  父親は、首を振った。 「そんなはずはない。裏アカは絶対に発見できないはずだ。一体、どうやって」 「2年前、僕はあるトラップを仕掛けた。父さんに、こんなことを言ったのを覚えているかい?月々定額の保険料を支払っていると、ラーメン屋で割り箸が偏って割れた時に保険金を請求できるという『割り箸保険』があったらいいんじゃないかと」  父親は記憶の糸を辿っているようだったが、息子はそれも無視して続けた。 「その後すぐにツイッターで『割り箸保険』を検索した。そうしたら、見つけたよ。父さんの裏アカを」  レードルが床に転がり落ちたが、父親はそれを拾おうともしなかった。 「本アカでは『息子は勉強もできて家事も手伝ってくれて偉い』とツイートしつつ、裏アカでは『馬鹿かこいつw』と。それを見て決めたんだ。いつか復讐をしてやろうと。そして、今夜、チャンスが訪れた。父さんの作る夕飯を当てるというチャンスが!」  そして、息子は宣言した。 「僕の勝ちだよ。父さん」  ◇◇◇◇  息子は、父親の行動を注意深く見守った。ポトフの入った鍋に何かを混入される可能性があったからだ。それは、残ったカレーのルーかもしれない。そうなれば、夕飯はポトフからカレーに変更されてしまう。  しかし、父親は圧力鍋の蓋をそっと閉めただけだった。 「まさか、2年前から仕込まれていたとはな。だが、果たして、おまえの復讐は果たされたのだろうか?」  床に転がったレードルを拾い上げながら、父親は息子に問いかけた。 「何を言っている?僕は、夕飯がポトフであることを予測し、食卓にフォークを並べ、黒胡椒も置いておいた。父さんの負けだよ。悪足掻きはよすんだ」 「おまえは、何もわかっていない。視野を広げろと言い続けているというのに。もっと周りの空間に目を向けろ。何か気付くことはないか?」  そう言って、父親は両手を広げた。それによって、息子の視野を広げようと試みるかのように。 「言われてみれば、この空間、何かがおかしい。父さんが、父さんが何かしているのか?そう言えば、冷蔵庫も食器棚も、昨日までと違う。一体、何が?この空間に何が起こって...まさか!まさか、ここは!」  父親は、ゆっくりと頷いた。 「そう。ここは、おまえの家じゃない。ここはな、お隣の斉藤さんの家だ。おまえが学校に行っている間に部屋番号を入れ替えておいた」 「でも!」息子は即座に反論した。「それなら、僕の鍵ではこの部屋には入れないはず。帰宅する度に確認するのが習慣になっているが、今日も鍵が付け替えられた形跡はなかった!」 「確かに。鍵を付け替えれば、その痕跡でおまえに感づかれる。だから、付け替えたんだよ。『ドア全体』を」 「そんな...」  うなだれる息子に近づくと、父親はそっとその肩に手をおいた。 「おまえは、いつも視野が狭い。もっと全体を、そう蝶番(ちょうつがい)まで見ていれば、ドアの付け替えに気が付いていただろう」  息子の目から涙がこぼれ落ちた。父親は、肩に置いた手を優しく背中にまわして言った。 「さあ、うちに帰ろう。夕飯の時間だ」  ◇◇◇◇  スマートデバイスに「エアコンをつけてくれ」と父親が依頼すると、リビングの片隅から暖かい風が流れ始めた。 「今夜の『本当の』夕飯は、豚の角煮だ」 「でも、この匂いはいつもの豚の角煮じゃない。これは...八角!」  驚いて振り返った息子を優しく見つめる父親。 「そうだ。一昨日、ツイッターで『八角香る豚の角煮』を見つけてね。『いいね』しておいたんだ。別の裏アカでな」 「裏アカは複数あった!」 「斉藤さんの家のコンロで火にかけていたフライパンは、カモフラージュのためではない。角煮にかけて食べるために煮汁を煮詰めていたところだったのだ。さあ、温かいうちに食べよう」  息子は力なく椅子に腰掛けた。 「それから」角煮を皿に盛りつけながら、父親は言った。「私は、カレーのルーを捨てたりはしないぞ。あれは、斉藤さんの家に最初から半箱の状態で置いてあったものだ。わざと気付かれるように本棚に隠したのは、私だがね。おまえがもう少し注意深く生活していれば、12日前の斉藤さんの家の夕飯がカレーだったことを記憶していただろうにな」  ◇◇◇◇  豚の角煮を口に運ぶ息子に、父親が声をかけた。 「どうだ?うまいか?」 「うまい!うまいよ、父さん!」 「ところで」と息子が続けた。「このレシピ、僕も知りたいな。あとでこのレシピをツイートしてた料理アカウントを教えてよ」 「おっと、それを言うと、レシピに『いいね』したアカウントを総当たりすることで、私の裏アカが見つかってしまう。そうは、いかないぞ」 「ふふ、父さんにはかなわないや」  快適な温度が保たれた室内には、八角の香りが充満していた。その香りは窓のサッシの隙間から外へとこぼれてゆく。激しく燃え上がることなく、一見すると消えてしまったかのような、火種の光とともに。  ◇◇◇◇  旅行中だった斉藤さんの家に空き巣が入った事件が話題になるのは2日後のことである。金銭的な被害は一切無く、冷蔵庫の食材の代わりにポトフが残っているだけ。犯行動機がまったく掴めず、警察による捜査は難航するのであった。